「朝礼やるぞ!」
万世橋署・生活安全課の古びたオフィスに、課長の村雨のデカい声が響いた。それまでパチパチとパソコンのキーボードを叩いていた数人の課員たちは、一斉に手を止め椅子から立ち上がった。
「えー、昨日も言ったが、最近また悪質なコンカフェが増えてる。過剰な客引きどころか、売春やってる店もあるって噂だ」
周囲がざわついた。生活安全課の課員たちは、小声で「あの店かもな」などと話している。村雨は、パンパンと手を打って仕切り直した。
「まあそんなわけで、だ。今夜から見回りを強化するから。道の真ん中に出ての呼び込みや、しつこい付きまといを見たら厳重注意。パトカーでの巡回も台数増やすぞ」
課員たちから、はぁー、とため息が漏れ、いかにもヤレヤレといった空気が漂った。村雨は課員たちへ喝をいれようかと思ったが、やめた。ここのところコンカフェ関連のトラブルが急増しており、そのせいで皆、疲弊しているのは十分わかっていた。ふぅ、と息をついて言った。
「今日はそんなとこか。誰かなんか報告ある奴いるか?」
沈黙。
「ないな。じゃあ、最後に。秋の異動でうちの課にも1人きたから。江藤くん自己紹介」
「あ、はい」
村雨に言われて、少し離れた場所に立っていた細身のスーツ姿の男が、オフィスの前方に小走りで現れた。チラチラと周りを見てから、強張った声で話し始める。
「本日付で、青梅署地域課より、こちらの万世橋署、生活安全課に異動になりました、江藤と申します。若輩者ですが、よろしくお願いします」
緊張している新人刑事に向けて、各方面からパチパチパチ、とまばらな拍手が起こった。
村雨はオフィスの後方に向かって言った。
「指導係は陣内、お前だからな。ちゃんと指導しろよ」
陣内と言われた男は、片足に重心を置きながら気だるそうに立っていた。右手の肘から上だけを上げて、「はーい」と気の抜けた返事をした。
「おし、じゃ朝礼終わり」
村雨がそう言うと、課員たちがガラガラと一斉に椅子を引く音がオフィスに鳴り響いた。
新人刑事の江藤は、自席のあるオフィス後方に、おそるおそるといった足取りで向かっていった。隣のデスクでは、思いっきり背もたれに体を預けた状態で、陣内がパソコンを眺めている。
「陣内さん、江藤と申します。よろしくお願いします」
陣内は、ネイビーの綿パンに白のロンTを着ていた。足元はニューバランス。椅子の背もたれには、薄いカーキのブルゾンがかかっていた。かなりラフだ。
陣内だけじゃなくほかの課員たちも私服姿で、襟付きの服、ましてやスーツ姿などは江藤だけだった。
江藤に声を掛けられた陣内は、一瞬キョトンとした顔をしたが、直後ニッコリと笑い「ああ、よろしくね」とだけ言った。
陣内のあっさりとした挨拶に少し物足りなさを感じつつも、江藤は自分のデスクの上に置かれた段ボールから、荷物をひとつずつ取り出した。青梅署で使っていた私物だ。ファイル、ノート、ペン、パソコン、マウスなどをデスクの好みの位置に設置すると、江藤は席につき、改めて陣内に話しかけた。
「あの、陣内さん、早速ですが、何かお手伝いすることはありますでしょうか?」
陣内はパチパチとパソコンのキーボードを叩く手を止める。
「ん?…ああ。ええっと、そうだね…。なんだろ」
陣内は首を少し傾けて、いかにも考える人のようなポーズをとると、思いついたように言った。
「じゃあ、とりあえずさ、あとでうちの管轄エリア案内するね。それまでテキトーに過ごしてていいよ」
「あ、はい…。適当に、ですか」
「デスク周りの荷ほどきとかさ。前の署から荷物届いてるでしょ?」
「えっと、それは今終わりました」
どうやら陣内という男は、あまり周りに注意を払わないタイプの人間なのかもしれない。そう江藤は思った。現に、パソコン画面を食い入るように見てばかりで、先ほど自分が荷ほどきをしていたことなど全く気付いていなかったようだ。
陣内はギシィ、と椅子にもたれかかって遠くを見るような目で言った。
「ぶっちゃけ、今日の今日でやる事まだないんだよねー。まあ、暇だったらスマホいじってていいよ。今日くらい」
「いや、そういうわけには」
江藤は、基本的に真面目な性格であった。仕事中に、しかも公務員である身分でサボるなど、ありえない、という考えだった。しかし、そんな江藤をよそに陣内はつづける。
「さすがにデスクじゃマズいけど、休憩室なら大丈夫だから」
「いや…」
江藤が困惑していると、陣内はくるりと椅子をまわして、江藤と向き合った。
「江藤くんさ、なんか初々しいね。何年目?」
「あ、今6年目です。昨日まで青梅署の地域課で、交番勤務でした」
「まじか。てことは、刑事初日だ」
「はい…。でも正直、まだ刑事になった実感がわいてません」
「だよね~。じゃあさ、休憩室で『セブン』とか『トレーニングデイ』とか刑事初日モノの映画でも見てれば?」
「いやいや、ですから…」
「あ、刑事モノとかあんま見ない?」
「いや、そういうわけでは」
江藤は自身の教育係の癖のあるキャラクターに困惑し、早くも焦りの様なものを感じていた。
この人、大丈夫か?、という意識に脳内の90%を占拠されつつ、このままでは本当にスマホで映画を見ることになりかねないと思い、とりあえず適当に提案した。
「じゃあ、とりあえず過去の捜査資料とか見ておきます」
「あ、そう?なら、捜査資料はあそこのキャビネットにあるから」
「わかりました、ありがとうございます」
「あ、それと、明日からは私服姿でいいからね」
江藤が返事をする前に、陣内は、キィ、と椅子を戻して、また自分のパソコンに向き合った。ふたたび、背もたれに体をだらりと預け、キーボードをパチパチと打っている。
江藤は青梅から秋葉原付近のアパートに引っ越してきたばかりで、私服の手持ちがなかったので、一番近いユニクロはどこだろう、と考えながらキャビネットまでファイルを探しに行った。
キャビネットには1970年代からの事件の報告書がファイリングされていた。
青梅署時代もそうだったが、すべて紙で残されているようだ。今どきデジタル化すればいいものを…、と思いつつ背表紙に「1990年代」と書かれたファイルを見つけると、キャビネットから抜き出した。
江藤は平成の生まれだ。80年代だとあまり実感が持てず、00年代だとやや最近すぎる気がして、間の90年代の捜査資料を選んでみた。
自席に戻って、ファイルをパラパラとめくっていく。
パソコンや電子パーツの窃盗事件、違法コピーなどの事件が多い。確かに、Windowsが出たの90年代だよな、などと思いつつ読み進めていく。
キィ、とキャスター付きの椅子が回り、陣内がこちらを向いた。
「そうだ、おれ今日当直で夜もいるんだけど、江藤くんて次の当直いつ?」
「あ、僕も今日当直です」
そう言うと、陣内はポカンと驚いた顔をした。
「え、初日から?」
「はい。課長が陣内さんとスケジュール合わせたって言ってました」
「そっか。じゃあ、夜も時間が使えるな…」
「なにかあるんですか?」
「うーん、もしかしたら刑事初日に最適な仕事、お願いするかも」
「初日に最適…?」
「ま、とりあえず、またあとで」
「あ、はい」
陣内はまたパソコンと向き合い、カタカタッ、と数文字だけ入力すると、今度は背もたれに背中をつけず、画面を食い入るように見始めた。
何を調べてるんだろう、と思いつつ江藤はまた捜査資料に目を通しはじめた。
へぇ…こんな事件あったんだ、などと思いながら読んでいく。当然ながら、当時の被害者は気の毒であり、不謹慎なのは百も承知だが、過去の事件のログは普通に面白かった。やはり、事件にはその時代時代の空気感が如実に表れている。
だんだんと読むことに集中していくと、江藤の耳から環境音が遠ざかっていった。時計の秒針が時を刻む音と、時おり自身がページをめくる音しか聞こえなくなる。
やがて、そららの音も聞こえなくなった。
気が付いたら昼のチャイムが鳴っていた。江藤は、自分がかなり集中して捜査資料を読んでいた事に、ようやく気づいた。辺りを見回すと、相変わらずパソコンに向き合っている者もいれば、デスクで弁当を食べ始めている者もいた。チラリ、と陣内の様子をうかがうと、相変わらずパソコン画面をかじりつくように見ていた。が、
「江藤くん、テキトーに昼休憩とっていいからね。別に12時から1時の間じゃなくてもいいし」
と、まったく画面から目を離さずに言った。一応、自分の事は気にかけてくれているようだった。
「はい。了解です」
そう言うと、江藤は署をでて近くのコンビニまで昼飯を買いに行った。途中歩きながら、あの先輩の雰囲気だと歓迎ランチとかはやっぱ無いか、と自嘲気味に笑った。
やる事がないと時間の経過は遅い。江藤は今日一日、ずっとそんなことを考えていた。外はようやく暗くなりかけていた。
「あ、あの陣内さん」
江藤がそう言うと、PCを操作していた陣内の手が止まる。画面からは全く視線を外さない。
「はいはい。どした?」
「もう夜の6時なんですが…」
「え?もうそんな時間」
「ええ」
「ごめんごめん、ほったらかしすぎたわ。じゃあ、外出ようか!この街紹介するね」
陣内は慌ただしく、椅子にかけてあった淡いカーキ色のブルゾンを着こむと、江藤とともにオフィスを出た。
生活安全課のオフィスは万世橋署の3階にあり、二人は階段を降りながら1階に向かった。
陣内はカンカンカン、と小気味いい音を立てながら階段を降りる。
「江藤くん、秋葉原って来たことあった?ていうか、江藤くんって東京出身?」
「ぼくは大学まで愛媛でした。秋葉原も、今日はじめてきました」
「あ、そうなんだ」
「ただ、警察の仕事は東京でしたいと思って、愛媛県警じゃなくて警視庁受けたんです」
「んで卒配が青梅署?」
「そうです。だから東京、特に23区は全然土地感なくて」
「休み日とか都心のほう遊びにこなかったの?」
「遊びに行くのは八王子とか立川ですね、遠出しても中野までです」
「なるほど、そりゃそうか」
署の1階についてエントランスのドアを抜けると、目の前を何台もの車が走っていた。
万世橋署の目と鼻の先には秋葉原の電気街がある。車の走行音の後ろから、うっすらアイドルアニソンが聞こえていた。
先を歩く陣内は、あ、と前置きしてから江藤の方へ振り返った。
「そういや夕飯まだだよね?腹減ってる?」
「ええ、まあ小腹は」
「どうしようか、どっか店で食ってもいいけど、あんま時間もないし」
「あの、どうぞお気遣いなく」
そう言った江藤の言葉などまるで聞いていないかのように、「じゃあ、あれ食うか」と陣内は1人で納得してまた歩き始めた。万世橋署を出て電気街方面に歩いていく。
「どこに行くんです?」
「ほら、橋の向かいに見えるあそこの一角」
陣内は目の前にある、万世橋の左隣の一角を指さした。
「なんですか、あそこ。ラ、ラジオガァデン?」
ラジオガァデンと書かれた小さな屋台の様な建物が見えた。
「そう、あそこにサクッと食えるのあるから」
歩きながら陣内はガイドの様な口調で解説する。
「いま渡ってるこちらの橋が、我らが万世橋署の名前の由来の”万世橋”になります。下に流れてるのが神田川ね。かぐや姫ね」
「あ、この橋が!え、かぐや姫って?ジブリっすか?」
陣内は江藤の問いをスルーして、右手に広がる電気街を見ながら言った。
「で、目の前の、このでかい通り。こちらが中央通りでございます。秋葉原のメインストリートだね。世間で言われるアキバは、大体こっから600m先くらいまでかなあ」
「めちゃくちゃ人が多いですね」
万世橋の上から見る中央通りの歩道には、サラリーマン、私服の学生風、メイドや着物、軍服などのコスプレをした女性たちが見えた。
「だね。ま、今日は平日の夜だから少ない方だけど」
「これでですか?」
江藤は驚いた。地元愛媛でも青梅署時代でも、これだけ人が多い事はそうそうない。
「休日はホコテンになるからね」
「ええ?こんな大きな通りが…」
陣内は江藤のフレッシュなリアクションに満足しているようだった。ニコニコしながら橋を渡っている。
橋を渡り終えたすぐ先に、ラジオガァデンはあった。
「さあ、ついた」
陣内は両手を広げて、ようこそ、のポーズを取っている。
ラジオガァデンには自販機が数台並んでおり、端の方には角打ちに置いてあるような腰より少し高いテーブルが置いてあった。
「自動販売機コーナーですか…。え?おでんとかカツサンドが売ってますけど」
「コレさ、昔流行ったんだよね~。アキバ名物おでん缶と万カツサンド。刑事になったお祝いで、奢ってあげるよ」
「え、ありがとうございます」
江藤は何となく値札を見た。おでん缶320円、万カツサンドは700円。意外とする。
陣内が自販機に千円札を入れ、ボタンを押す。ピッ、と電子音が鳴った後、ガシャン、と缶が落ちる音がした。おでん缶を二つ買うと、陣内はつづけて万カツサンドも二つ買って、カツサンドの紙箱の上におでん缶を乗せ、「ほい、どーぞ」と江藤に差し出した。
「いただきます」
江藤が手に取ると、カツサンドは常温、おでん缶は適度な温かさだった。缶のプルトップを引っ張ると、パキャッ、といい音がする。
「すご…。普通におでんだ…」
人生初のおでん缶を見た人間の素直な反応だった。こんにゃく、ちくわ、うずらの卵に、大根。見事に王道のおでんダネが、そのひと缶に詰まっていた。
「あ、そのこんにゃくに刺さってる串で、他の具も刺して食う感じだよ」
陣内が食べ方をレクチャーしている間も、出汁の香りが江藤の鼻をついた。江藤はこんにゃくから串を抜き、ちくわに刺して食べてみる。
「味も、まんまおでんですね」
正直、江藤は、しょせん缶詰、と舐めていた。が、あまりのおでんっぽさに驚きを隠せなかった。
「うまいよね~。20年前は、アキバに全然めし屋がなくてさ。このおでん缶、超流行ったんだよねえ」
江藤はラジオガァデンから辺りを見渡す。秋葉原方面にも、神保町方面にも、チェーン店、個人店問わず、多くの飲食店の看板があった。
「信じられませんね…。今はこんなに店があるのに」
「ね。カレー屋とか激戦区だからねアキバは」
江藤は先ほどから気になってることを聞いてみた。
「このおでん缶て、やっぱり捜査の合間とかによく食べるんですか?」
羨望のまなざしを向ける江藤のことなど見ずに、陣内は缶の中のおでん種をチェックしながら言った。
「全然。それこそ20年ぶりに食ったよ」
「え」
てっきり秋葉原の刑事の張り込み時の必需品かと思って聞いた江藤は、恥ずかしくなって下を向いた。陣内はおでん缶の出汁汁をぐびぐびと飲むと言った。
「名物って、その土地にいると食わないでしょ」
江藤は恥ずかしさを隠すために、つい反論をした。
「いや、『新参者』の阿部寛は人形焼き食べてましたよ」
「いや、ドラマだからね」
陣内は苦笑してつづけた。
「てか、やっぱ刑事モノ好きなの?」
「あ、いや、昔ちらっと見ただけですけど」
江藤は今度こそ赤面してしまった。実は生活安全課の刑事になることが決まってからの1か月間は、毎日刑事ドラマを見ていた。
そんな江藤のことなどお構いなしに、陣内はおでん缶をたいらげ、カツサンドをパクついている。
江藤も照れ隠しからか、大げさにカツサンドをほおばり、おでん缶の汁で流し込んだ。
「さて、腹ごしらえもすんだし、そろそろ行こうか」
「あ、はい。ごちそうさまでした」
二人は、ラジオガァデンの横のゴミ箱に、空になった箱と缶を捨て、電気街方面に歩き始めた。先ほど来た万世橋を再び渡り、中央通り沿いをまっすぐ歩いて行く。
JR総武線秋葉原駅の高架下を抜けたあたりから、喧騒が大きくなった。店のスピーカーから爆音で流れるアニソン、オノデンのCMソング、向かいのビルの上に設置された液晶モニターからも、警視庁の交通安全CMが大音量で流れている。そこに頭上の高架を列車が走り去る音がプラスされ、さらには5メートル進むごとに道端のメイドや忍者のコスをした女性に声をかけられる。
あまり人ごみや繁華街に慣れていない江藤には、なかなかのカオスっぷりだった。
そんな江藤をよそに、陣内はぐんぐんと歩いていく。が、不意にピタリと足を止め、江藤の方へ振り返った。先ほど通過した総武線の高架を指さして言った。
「あの高架をくぐったあたりからが、いわゆる秋葉原の電気街ね」
江藤は顔をしかめている。
「なんか、すごい賑やかですね。情報量が多いというか」
「この中央通り沿いは、特に賑やかだね。アニソンと家電屋の歌に、キャッチの声。ザッツ、アキバサウンドってところだね」
少し歩くと交差点に当たる。陣内は左に曲がっていく。
「こっちの裏通りも行ってみようか」
「あ、はい」
アニソンなどが小さくなり、メイドたちのキャッチの声がより耳につくようになる。
江藤の目の前に、店先に大量の雑貨を陳列している店があった。ライト、コンセント、傘、キャラグッズ、ハンディー扇風機、ケーブル類、なんというか品数が半端じゃない。
江藤は店をきょろきょろと見回しながら言った。
「なんかほかの街じゃ見ないような店がたくさんありますね」
「そうね~。アキバの店は、飲食店を除くと…」
陣内は指折り数えながら、つづけた。
「ラジオとか電気系のパーツ屋に、映像とかゲームのソフト屋でしょ。あと、フィギア屋、トレカ屋とかも多いな…たしかによその街じゃ見ない店ばっかだな」
と、江藤の目の前に、何やら物騒なものが並べられた店がでてきた。
「こ、この店はなんですか?ライトとかイヤホンに並んで…、十手とか催涙スプレーも売ってますけど」
「ああ、そういう謎のガジェット売ってる店も多いね」
「な、なんか幅広いですね」
江藤は、学生時代まで愛媛で過ごし、警視庁に入庁してからも青梅署の奥多摩の交番に卒配だった。愛媛の繁華街もなかなか賑やかだし、青梅署時代も立川や吉祥寺まで遊びに行っていた。
しかし、なんというか、この秋葉原という街は、そうした「ちょっと賑やかな街」とは情報の過密っぷりが違った。加えて、無秩序でサイケデリックな雰囲気も感じる。
江藤はカルチャーショックにくらくらしていたが、そんな様子を知ってか知らずか、陣内は歩きながら、この街の変遷を話し始めた。
「秋葉原って街はもともとラジオとか無線の街でさ。ラジオって昔は組み立て式だったから部品を買いにくる人も多かったみたい」
江藤の記憶に眠っていた、数少ない秋葉原の情報が蘇った。
「ああ、なんかそれ、こち亀で読んだ気がします。両さんの弟がマニアックな部品を買いにきてて」
陣内は笑顔で反応した。
「うわ、あったね~。あれは多分向かいの通りのラジオセンターかなあ。でも、そうそう、元のアキバはその感じかな」
江藤は辺りの店を見まわしている。
「今も、ラジオパーツって書いてある店、けっこうありますね」
「だいぶ数は減ったけどねー。で、その後アキバは、家電ブームがきて、電気街になっていったんだけどさ」
「たしかに家電屋も多い」
大きなビルに掲げられた家電量販店の看板を見上げる。エディオン、ヨドバシ、ヤマダ。ほかにもたくさんあった。
「そう。で、90年代になると、Windowsが登場して、パソコン街になってっいく」
「パソコンブームですか」
「そうそう。このあたりは、ジャンク通りって言って、おれが学生だった頃は、激安のPCパーツの店ばっかりだったよ」
「そうなんですね」
陣内は懐かしそうに言う。ということは、陣内の歳は40前後ということだろう。
「そういえば、今日ずっと読んでた捜査資料も、90年代はPCの窃盗や、ソフト偽造の事件が多かったです」
「懐かしいねえ。まあ、そういうわけなんだけど、そのあとエヴァが流行ったあたりからかな~。今度はアニメの街になっていくんだよね」
「え、エヴァンゲリオンですか!ぼく、こないだ配信で見ましたよ」
陣内は苦笑しながら「配信世代かあ~」と言ってつづけた。
「それからも、メイド喫茶とか、AKBとかも流行が移ろいでって、今はコンカフェが大流行、って感じかな」
「色々経てますね」
江藤は最後のコンカフェ、という単語を聞いたことがなかった。陣内はつづける。
「アキバはね、時代の文化が地層にみたいに積み重なってる街なんだよ」
「地層ですか」
「今は地層の一番上がアニメとコンカフェだから、それ系の店が目立つけど、路地裏に行けば、昔ながらのラジオ部品も売ってるし、過去の文化も完全には消えてない。積み重なったもので見えずらくはなってるけどね」
「なるほど‥。街に歴史アリ…ですか」
江藤は、今日一日ずっと陣内をテキトー男だと思っていたが、街の持つ歴史、その変遷をさらりと語る姿を見て、少し見直し始めていた。
そして、先ほどから疑問に思っていた単語を聞いてみた。
「あのところで、さっきから出てくる、コンカフェってなんですか?」
陣内は立ち止まり、え?とポカンとした顔で江藤を見た。
「え、知らない?コンセプトカフェって言って、店員の子にナースとか忍者とか海賊とか、何かしらの設定がある店なんだけど」
「メイド喫茶とは違うんですか?」
江藤がそう言うと、陣内はしばし考え込んだ後、ちょっとした事にひらめいた様な表情をして言った。
「…そうか。江藤くん、今のアキバの街にどんなイメージ持ってる?」
江藤は、一瞬考えたが、素直に思ったままの印象を言った。
「えーと…、アニメのフィギアを買ったり、メイド喫茶に行くオタクの人たちがたくさんいる街、みたいな」
「はいはい、電車男的なね」
「あ、そうです。懐かしいですね『電車男』」
陣内と江藤は、電気街の裏通りのひとつ通称”ジャンク通り”の端っこにいた。PCパーツが一山いくらで売られている店の前に立ったまま、陣内はさらに質問をつづけた。
「じゃあさ江藤君。警察の人間としては、この街はどう見える?」
「うーん、ぶっちゃけオタクの人が多いんで、そこまで危ない街ではないのかなと」
陣内は、やっぱり、という表情で小さく頷いて言った。
「なるほど」
「え、違いますかね?」
少し戸惑う江藤に陣内は断言してみせた。
「15年くらい前のイメージだね」
「え?」
「この秋葉原って街はさ、さっき話した通り、街の表情がどんどん変わっていくんだ」
「はい」
「こんなにコロコロ変わる街は東京でもそうそうない。で、さっき話した通り、今はコンカフェ全盛の時代で、アキバだけでも300店舗くらいある」
「そんなに?」
「過激なのじゃ、バニーガールとか胸元がばっくり開いた衣装のコンカフェもあるよ」
「ええ?」
「昔はオムライス出して萌え萌えキュんで終わりだったけど、今じゃカウンター越し…どころか、隣に座って接客する店もある」
「え、それってもう、ガールズバーとかキャバクラじゃ…」
「一部の店だけどね。でもまあ、今のアキバは歌舞伎町ほどじゃないけど、立派な歓楽街のひとつだよ」
「そうだったんですね…」
もはや一口にオタク街といって済ませられない”今の秋葉原”を知って、すこし驚いている江藤に、陣内は「じゃ、行こうか」と言って、また歩き始めた。
2人はパソコン製品が雑多に並ぶジャンク通りを抜けて角を曲がり、また秋葉原のメインストリートである中央通りに戻っていく。
江藤は、歩きながら先ほどの陣内の話を自分なりに咀嚼していた。その中で、ふと疑問に思ったことがあった。
「あの、陣内さん」
「ん?なあに?」
陣内の受け答えはいつも柔らかかった。アニソンやキャッチの声がうるさい中央通りを歩きながら、二人は話をつづける。
「よく考えたら、コンカフェがキャバクラ化すると何が問題なんですか?別にキャバクラは合法ですよね?」
陣内は頷きながら江藤の話を聞いていた。そして江藤が質問を終えると、即座に答えはじめる。
「もちろん合法だよ。ただ、認可が下りてればの話だけどね。カフェは保健所だけでいいけど、キャバクラみたいに接待が発生する店は風営法の許可が別にいるんだ。でも実態は無許可でやってるところがザラにある」
「じゃあ風営法の許可を取ればいいんですね?」
「まあね。でも風俗店扱いになるから、営業時間が短くなるし、ビルのオーナーもいい顔しないとかで、一部の店は無許可でやるみたい」
「なるほど。だから表向きカフェで、実態は無許可のキャバクラっていう店が出てくるのか…」
「そういうことだね。でもま、無許可ってだけの店はまだマシなんだ」
「え?」
江藤は陣内の言っている事の意味がよくわからなかった。
「まだマシ、ってほかにどんな悪い事があるんですか?」
陣内の目つきが少し鋭くなった。
「うーんと、例えばオムライスを一万円で売ったりする悪質な店もあったり…」
「一万?ぼったくりじゃないですか!」
「さらにヤバいところだと、女の子に裏オプション、通称裏オプって言うんだけど、それで売春行為させてる超悪質な店もある」
「ええ?」
江藤は驚きのあまりつい大きな声を出してしまった。周りで呼びこみをしているキャッチの女性たちが、一瞬だけ一斉にこちらを見た。陣内はまったく動じずにつづける。
「まあ、そんなわけで、単に無許可でキャバクラやってだけの店と、一線を越えちゃってる店が存在してるんだ。今のこの街は」
陣内は鋭い目つきでそう言っていたが、どこか寂しそうでもあった。
先ほどの陣内を思い出すと、ずっとこの辺で育ってきたよう話しぶりだった。もしかすると、ずっと街の変化を見てきたこの男にとって、今のこの街の姿には、少し悔しい気持ちがあるのかもしれない。そんなことを江藤は思った。
「じゃあ、ぼくたちはそういう店を摘発するのが仕事ってことですね」
「いや、単に無許可でキャバクラやってる店については、生活安全課の別チームが動いてる」
「じゃあ、僕たちのチームは?」
「裏オプやってる超悪質店の方」
「そっち限定ですか?」
「うん」
江藤はすこし気が重くなった。
「なんていうか、そういう事させてる店の運営って…」
江藤が少しゲッソリした口調でそこまで言うと、陣内はニコニコと笑いながら答えた。
「うん、バックに半グレとかヤクザがいるケースも多いよ」
「やっぱりですか」
江藤はこれまでの警察官人生で、幸か不幸か酔っぱらいや地元のヤンキー同士のちょっとした喧嘩や、小さな窃盗事件などしか経験しておらず、ガチの反社会的勢力との関わり等はほとんどなかった。無論、刑事になったからには、そうした人間たちと渡り合う事も少しはあるだろうと覚悟していたが、とはいえ、千代田区の署、しかも秋葉原近くの、と聞いていたので反社などは滅多に関わらないだろうと思っていた。が、まさか、いきなりがっぷり四つになるとは。江藤はそんなことを考え、つい面食らってしまった。
「たしかに、陣内さんの言う通り、僕の思ってた秋葉原とはだいぶイメージが違ってました」
はは、と陣内は乾いた笑い声をあげる。
「まあ、あくまで一部の店に限った話だけどね。大抵の店は真面目に営業してるよ」
2人が中央通りを歩いていると、だんだんと秋葉原っぽい店が減ってきた。オフィスビルや賃貸マンションなどが目に付くようになる。
地下鉄日比谷線の末広町駅の地下への階段が見えてくると、陣内は足を止めた。
「さて、管轄内の主だったエリアは、この末広町駅あたりまでかな。あの先の信号からは上野署の管轄だし」
江藤は愛媛から上京し、多摩地区の署に配属になったこともあり、まだ上野には行ったことがなかったが、地名は知っていた。
「上野って、あの西郷さんの上野ですか?」
「そうだけど」
「え?上野と秋葉原ってこんなに近いんですか?」
「あそこに看板見えるじゃん?あのあたりが上野公園で、西郷さんとこ」
陣内が指で示した方向にはいくつもの古いペンシルビル建っていた。そこのひとつの屋上に看板があった。ここからほんの数百メートルの距離だ。
「ちかっ!」
江藤は驚くと、つい素な言葉が口をつく。陣内はケラケラと笑った。江藤は一見して真面目な青年だが、ときおり激しくリアクションをとってしまう。陣内にはそれがツボらしかった。
「わかるよぉ。東京ってメジャーな街同士が意外と近いんだよね。おれも中目と代官山とか、丸の内と銀座があんな近いの大学入るまで知らなかったもん」
秋葉原の電気街の終点から上野方面を見ると、路面店の数も少なく少し薄暗く感じた。
「上野の方は、ちょっと雰囲気が違いますね」
「そうだね。アメ横の方までいくとだいぶ賑やかだけど、中間地点はちょっと静かかも」
そういうと、陣内は「帰りはこっちの道を通って戻ろうか」と言って、引き返しはじめた。
二人はメインストリートの中央通りと平行に走る裏通りを通って、万世橋署まで帰り始めた。
この通りでは、様々なコスプレをした女性たちが行き交う男たちにしきりに声をかけている。
まったく見向きもしない男、話だけ聞いて過ぎ去る男、話しこんだ末についていく男と、反応はさまざまだ。メインストリートにもキャッチの女性はいたが、こちらの裏通りの方が数が多い気がした。
江藤はきょろきょろしながら陣内に話しかけた。
「すごいキャッチの数ですね」
「うん。この道が通称”メイド通り”。ここ最近さらに増えてる」
「2m置きくらいにいますよ」
「だね~。…あれ、あの子」
そう言うと陣内は足を止めた。先ほどまでの弛緩しきった表情が急に引き締まったものに変わっている。
江藤は不思議そうに聞いた。
「どうしました?顔見知りですか?」
陣内は江藤の質問に答えず、15メートルくらい先の誰かを目で追っている。視線はそのままで言った。
「江藤くん」
「はい」
「朝言った話し覚えてる?」
江藤は朝に陣内と交わした会話を思い出そうしたが、出てこなかった。
「なんでしたっけ」
「初日しかできない仕事」
初日に最適な仕事を頼むかも、そう陣内が言っていたのを江藤は思い出した。
「ああ、はい」
「出番だ」
「え?」
相変わらず陣内は少し先の誰かから視線を外していない。江藤は何が何やらわからなかった。
メイド通りは、両脇に小さな路地がいくつも走っている。ムラのある碁盤の目の様な作りだ。
二人はその路地のひとつに移動した。
建物の影から、先ほどまで見ていた場所を覗きこみつつ陣内が言った。
「あそこにキャッチの女の子いるでしょ?ドンキに売ってそうなぺらぺらのメイド服に猫耳つけた」
江藤が陣内が指をさした方向を見ると、他のメイドよりテンションが低めのメイドが立っている。他のメイドの来ている服は、メイド服、軍服、和服、どれをとっても装飾が多く凝っているが、彼女の服はたしかに質素な作りだった。
「いますね」
「声かけられたら、ついていって」
「え?」
予想外の指示に江藤は、視線を陣内に戻した。陣内は相変わらず、物陰からターゲットの女性を視線で追い続けている。
「そんで、入店したら、一番高い席につこうか」
「あ、あの」
事情を聞こうとした江藤を遮って、陣内はつづける。
「江藤くん、今日はスーツ姿だからな…。今朝、愛媛からアキバにきて、明日の便で帰るって設定にしようか」
「あの、どういう事ですか」
陣内は、戸惑っている江藤のことなど全くお構いなしだった。
「愛媛から東京に仕事で出張にきた設定ね。メイドの子に酒をせがまれたら、ガンガン奢っちゃっていいから」
江藤は混乱しつつも、徐々に話を理解してきた。
「あの、つまり潜入捜査ってことですか?」
陣内はそこで初めてキャッチ女性から視線を外し、江藤に目をやった。ニヤリと笑って言う。
「そんな大掛かりな事じゃないって。研修みたいなもん。あそこにいるキャッチの子はさ、前にアキバのJKカフェで働いてたんだ」
「は、はあ」
「その店は裏オプション、通称”裏オプ”で売春やってるって噂の超悪質店だった。でも、本格的に捜査する前に店ごと逃げられたんだ」
先ほど陣内が話していた、江藤がこれから担当する事になるタイプの店、ということだ。
「そうだったんですか。じゃあ、あの子は今、別の店で働いてるってことですね」
「まあ、そうなんだけど、まだ前の店のオーナーの元で働いてる可能性も全然ある」
「え、そんなことあります?」
「ああ。超悪質店ってメイドの子がやめづらい事も多いからね」
「やめづらい?なんでですか?」
売春をやってるコンセプトカフェと言っても、働いてる女性は別に単なるバイトだろう。なぜ辞めづらいなんて事になるのか、江藤はピンとこなかった。
「脅されるから」
「え?」
「オーナーが、お前が売春をしたことを家族と学校にバラすぞ、って脅すのさ」
「え、そんなことを?」
「実際、店側はバイト面接時の履歴書で連絡先おさえてるからね。ほかにも、働いてる子たちが協力しあったりしないように、メイド同士に会話をさせない店とかもある」
「え、じゃあ、無理やり働かされてる子もいたりするんですか?」
「ああ、いるかもね」
そう答えた陣内のトーンは先ほどより少しだけ厳しいものだった。一見するとヘラヘラした男に見えるが、この男はもしかしたら、根は熱い男なのかもしれない。
江藤がそんなことを思っていると、陣内は先ほどと打って変わってケロリとした口調で言う。
「ま、逆に積極的に裏オプをやる子もいるけどね。稼げるからって」
「え?」
「手っ取り早く稼げるのは事実だからね。裏オプは。だから、みんながみんな、無理矢理やらされてるわけじゃない」
江藤は、理屈ではわかるが、納得できなかった。
「そうですか…。僕には、そういう事に手を染める子は、皆、やむにやまれぬ事情があるような気がします」
その言葉を聞いた陣内は一瞬目を丸くし、そこから少しニヤニヤしはじめ、何か言おうとしたが、一度口を閉じて、真顔に戻って改めて話し始めた。
「やむにやまれぬ、そういう女性が多いのも事実だよ。ただ、まあ、色々な子がいるのも事実だ」
「ですか」
陣内は、仕切り直すように言った。
「てなわけで、あの子の今いる店が、前と同じ奴らがやってる超悪質店の可能性はある。それを江藤くんに客のふりして確認してきてほしいんだ」
たしかに違法な売春行為を野放しにしておくべきではない。ましてや無理矢理働かされてるなんて事なら尚更だ。そうしたある種の義務感を感じつつも、江藤は相変わらず不安だった。
刑事初日、右も左も知らない街、いきなりの潜入捜査、今の自分にできるとは思えなかった。
「ぼ、ぼくなんかより陣内さんがいった方がよくないですか?」
陣内は即答した。
「それはできない」
「な、なんでですか?」
「朝礼で課長が言ってたでしょ。生活安全課のチームはしょっちゅう巡回してんの。特に超悪質店担当のおれなんかは、いろんな店に出入りしてるから、その筋の奴らに顔ワレてんのさ」
「…そうなんですか」
つまり、生活安全課の先輩である陣内は、すでにこうした捜査を何度もしてきているのだろう。自分だってビビッてはいられない、江藤は思い直した。
「江藤くんだって、こういう仕事をしてれば、裏の人間にはすぐ顔を覚えられるさ。だから客のフリして来店できるのは、今日が最初で最後かもしれないんだ」
-最初で最後かもしれない-
陣内のその言葉には、どこか刺さるものがあった。だとしたら、この機を逃したらもうチャンスはないだろう。今後、刑事として生きていく上で、この機は逃していけない。
そんな気がした江藤は、気づくと口走っていた。
「わかりました。行ってきます」
「お、いいね~。どう?刑事っぽくなってきたでしょ?刑事になった実感わいてきた?」
陣内はいたずらっぽく言うが、江藤はそれどころではなかった。
「い、いえ、すみません。正直、全然頭が追いついてないです。本当に僕にできるんでしょうか」
「何も逮捕しろって言ってるわけじゃないから。金払いのいい客になって酒飲んでくればいいだけだよ。ただ、刑事だって事は絶対バレないようにね」
「わかりました」
「ま、裏オプを勧められずに、単に飲むだけになる可能性もあるしさ」
江藤は少しホッとした。
「ですよね」
「とはいえ、“明日愛媛に帰るから今夜は楽しみたい”とか言えば、ワンチャンあるかもしれない」
「あの、ほんとに裏オプを勧められた時は?」
「もちろん承諾だよ。で、直前で飲みすぎたとかテキトーな理由つけて金だけ渡して帰ってきて。そしたら裏どり成功っ!」
陣内は目をキラキラさせて嬉しそうに言う。今日一日を通して薄々感じていたが、この男には緊張感というものがまるで無いようだ。
「はぁ。了解…です」
江藤がそう言うと、陣内はゴソゴソ服をまさぐり、財布を取り出すと雑に札を数枚抜き、渡してきた。
「これ、軍資金。念のため多めに5万。ま、研修だと思って気楽にいってよ」
「わかりました」
「そーだ、総務課から業務用のスマホってもう支給された?」
「え、あ、はい。持ってきてます」
そう言うと江藤はスーツの内ポケットからスマホを取り出した。今朝、出勤した際に総務から渡されたアンドロイド端末だ。
「オーケー。その端末は署のシステムで全部繋がってて、GPSで各自の場所がわかる様になってるから」
「え、あ、そうなんですか?」
「そう。だからサボってるとバレんだよねー。ま、そういうわけで、この辺土地勘ないと思うけど、はぐれても迎えに行ってあげれるから安心して」
「わかりました」
そこで陣内は、くるりと周り来た道を引き返しはじめた。振り返って江藤に言う。
「じゃ、おれ、そこのドトールで待ってるから。いってらっしゃい」
手を振る陣内に向かい、江藤は「い、いってきます」と小さな声で応えた。
「マジで1人で行くのか…」
江藤はひとりごとを言いながら、あたりをきょろきょろ見回し、ターゲットのキャッチの女性に近づいていった。
たどり着くまでに、何人ものコンカフェ店員のキャッチに声を掛けられたが、どの声かけに対しても「すみません」と小声で断っていく。
ようやくターゲットの前まで来たところで、お目当てのメイドから声を掛けられた。
「お兄さん、猫耳ランドで飲んでいきませんかー?2000円で飲み放題だよ」
江藤は足を止めた。よく考えたら、自分が普段こうした歓楽街でキャッチに誘われるがまま店に行ったことは一度も無かった。
先ほどからの緊張も相まって、頭が真っ白になり、なんと言ったらいいかわからなくなった。 江藤はしどろもどろになりつつ、なんとか声を出した。
「え、あ…。い、いいですね。行ってみたいんですけど」
「え?マジ?来れるの?」
おそらく先ほどから全キャッチを総スルーしてきた江藤を見ていたのだろう。まさかの来店希望が予想外のようだった。
「超嬉しい~!じゃあ、こちらへどうぞ」
メイドに連れられて江藤は路地裏へと入っていった。
そのメイドは20代前半くらいで小柄で丸顔。顔のパーツが全体的に大きく、体形も少しだけ太めで、安物のメイド服の胸元はかなり目立っていた。整っている、という感じの容姿ではなかったが、どことなく男好きしそうなタイプに思えた。
メイドは右胸につけている手書きの名入りのバッジを見せて、「リコ」って言いま~す、と自己紹介した。江藤はどうしていいかわからず、「あ、江藤です」とペコリと小さくおじきをした。
リコに引き連れられ歩いていくと、だんだんと人気が少なくないエリアになってきた。コツコツ、とメイドの履く靴がアスファルトを叩く音が聞き取れる。
電気街の喧騒が遠くに聞こえるような静かな一角に建つ雑居ビルの前に立つと、メイドは言った。
「こちらの2階になりまーす」
「え…、ここに…あるんですか?」
そこはあまりにも地味な雑居ビルだった。もはや電気街からはだいぶ離れている。まわりにも秋葉原っぽい店はなく、雑居ビルと古いアパートばかりだった。
だが、たしかにビルの2階の窓には猫耳ランドと書かれたポップなシールが貼ってある。
「うん、珍しいでしょ~。うちの店ちょっと離れてるの」
リコは聞かれ慣れているのか、さらりと流すように言った。
江藤はリコの後ろに続いて雑居ビルの階段を上がった。カンカン、と階段を昇る音が響きわたるくらいあたりは静かだった。とてもコンカフェがあるようには思えない。
2階につくと、窓の無い金属製の分厚そうなドアがあり、カラフルな色使いで「猫耳ランド」と書かれたプラスチックの札が掛かっていた。
江藤の心臓の鼓動はかなり速く鳴っていた。目の前に立つリコは、ガチャリ、と店のドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、店内BGMのアニソンが耳に入ってきた。ドスドスとバスドラムの音がはっきり聞き取れるくらい強めに鳴っている。
店内は薄暗く、ファミレスの4人席を少し小さくした様なボックス席がいくつも設けられている。店員の女性たちは客の隣でガッツリと接客をしていた。胸元に切り込みが入った生地の薄いメイド服を着ており、リコと同じように頭には猫耳がついている。
リコは、店内を数歩進むと、いきなり大きな声で言った。
「お帰りなさいご主人様~」
するとワンテンポあって、店内にいるメイドほぼ全員から同じ言葉あがった。
「お帰りなさいご主人様~」
江藤は突然の対応に、あ、え、ども、などとあたふたしていると、リコがスプレーボトルを持って近づいてきた。
「アルコールスプレーするから、手をだしてもらっていいですかー?」
「ああ、はい」
リコは慣れた手つきで、江藤の両手にアルコールスプレーを吹きかけてくる。
「こちらへどうぞ」
リコと一緒に、江藤は店内の奥へと進んでいった。左右に並ぶボックス席をさりげなく見ると、ひとり客が多い。客一人につきメイド一人、という組み合わせだ。
男の肩に寄りかかっているメイドもいれば、膝枕をしている客もいる。みな、密着度が高めだった。
「ここに座ってもらっていいですかー?」
「はい」
江藤は言われるがまま、店の奥のボックス席に腰を下ろした。
「隣、座らせてもらいますねー」
「あ、はい」
リコが江藤の隣に滑り込むように座る。
どうやら、がっつり隣で接待する、いわば、先ほど陣内が言っていた風営法の許可がいるタイプの店で間違いないようだ。
江藤は青梅署時代、先輩に八王子のキャバクラに1回だけ連れて行ってもらったことがあったが、この手の店に行ったのはそれだけだった。
緊張した面持ちの江藤に、リコが笑顔で尋ねる。
「お兄さん、うちのお店初めて?」
リコの口調はとても気さくだった。その口調のおかげで、少し江藤も落ち着きを取り戻した。
「はい」
「じゃあ、お店の紹介からしますねー。当店「猫耳ランド」は、迷える野良猫ちゃんと一緒に、お話ししたり、お酒を飲めるカフェになっています。にゃん」
リコは左手を少しだけ高くして、両手を丸め猫のポーズをとった。甘えるようにとろんした表情をしている。が、江藤はいまいちピンときていなかった。
「の、野良猫ちゃんって、ここ猫カフェなんすか?」
「ほら、私の頭に猫耳ついてるでしょー!」
「ああ!お姉さんが野良猫ってことか!すみません!」
江藤は、一瞬、本物の猫がいる猫カフェかと勘違いした自分がとても恥ずかしかった。リコは話を続ける。
「でね、今いる席は、ラベンダーの森って言うんだけど、ラベンダーは猫が苦手が匂いだから、ここで飲んでても野良猫ちゃん達は寄ってこないの。あっちのマタタビエの森って席に移動すれば、野良猫ちゃん達と一緒に飲むことができるよ」
「え、そうなんですか」
「うん、マタタビの森の席は、プラス4000円ね」
なるほど、こういうシステムか。江藤はこの店が限りなく黒に近いグレーに思えてきた。
「え…あ、そういう仕組みなんですね…。わかりました。せっかくなんで移動します」
「わーい!じゃあ行こ」
リコに連れていかれたボックス席は、先ほどと同じ黒いビニール張りのソファ席だった。煙草の灰が落ちてできた穴がいくつか開いている。先ほどの席との違いは、マタタビの森、と書かれた札がテーブルの上に置いてあることだ。
「ようこそ、マタタビの森へ~。どうぞお座りください。にゃん」
「はーい、お邪魔します」
リコは要所要所で猫ポーズをするが、江藤はまだそうしたコンカフェノリに慣れず、毎回照れてしまう。が、恥ずかしがるより、さっさとこの世界観に入り込んでしまった方がいいと思うようにした。
リコがドリンクメニューを広げて見せてくれた。
「飲み物、何する?」
「あ、じゃあ、ビールで」
「はーい。私も飲んでいい?」
「え。ああ…、もちろん」
リコは、飲み物を取りに店の奥に行ってしまった。どうやら接客する女性が飲み物やつまみの用意もすべて担当するらしい。改めて周りの客席を見ると、つまみは乾きものしかなかった。一人でも簡単に準備できるものばかりだ。
しばらくすると、カチャカチャ、とグラスの音をたてて、おぼんに酒とつまみを載せたリコが戻ってきた。 ビールをこぼさない様に、そっと席につくとジョッキを渡してくれる。
「はい、ビール」
「あ、ども」
リコもビールだった。なんとなく、こういう場合、女性スタッフはカクテル類を飲む様な気がしたので、江藤は少し珍しく感じた。
リコは正面からこちらを見てニコリ、と笑って言った。
「にゃんぱーい」
「か、かんぱい」
リコは一度猫ポーズを取ってから、ジョッキに口を付けた。ぐびぐび、と喉を鳴らして酒を飲むと、ぷはぁ~、とわざとらしく息を吐いてみせた。少し上唇に泡がついている。なんというか、あからさまにあざとい。
江藤もジョッキを1/3ほど空けた。味は水っぽく薄かった。
「ねえ、ご主人様って東京の人?」
「えっと…」
江藤はふつうに愛媛出身で東京在住、という事実を言おうとしたが、慌てて陣内との設定を思い出す。
「生まれも育ちも愛媛で、え~っと昨日出張で愛媛からきました」
「え~そうなの?旅行?」
江藤は自分でもびっくりするくらい棒読みになってしまったが、リコは気にせず返しきた。男の話し方などあまり気にしていないのかもしれない。
「あ、はい。じつは今朝東京きて、明日の便で愛媛帰るんです」
「そうなんだー!じゃあ今夜はいっぱい思い出作っていってよー!」
リコはジョッキを上げ、イエーイと言った。
「ですね、今夜は思いっきりはじけたいと思います!」
「ウケる。はじけてって~」
「い、いえーい!」
江藤も無理やりテンションを上げて応じた。
そこから、しばらくリコと話していた。趣味を聞かれ「映画鑑賞」と答えると、偶然にもリコもたくさんの映画を見ていた。配信サービスで見れる名作をおすすめしあったりしているうちに、江藤にはこのリコという女性が、とても売春をしていた様には思えなくなっていた。江藤から見えるリコは、屈託がないというか、素直というか、どこか純粋さすら感じる女性だった。
だが、陣内の話によると、この子は以前の店で売春行為に及んでいた可能性が高い。
そのことから江藤は、このリコという子は無理やり働かされていた女性の一人だったのかもしれない…、と考えた。
そして、今ようやく店を辞められて、犯罪行為から足を洗えたのではないか。
仮説にすぎないが、そう考えると、目の前でビールジョッキを傾けるリコを見て、江藤は少し複雑な気持ちになった。
酒が入っているせいもあるだろうが、リコと話しているうちに、江藤はすこし仕事を忘れ、なんだか楽しい気分になっていた。
お互いのことがちょっとずつわかってきて、盛り上がったタイミング。そこで、リコは上目遣いをしながら言った。
「あのさ、ご主人様~。餌ドリンク、追加していい?」
「餌ドリンク?」
江藤が少し赤くなった顔で聞き返す。
「私たち野良猫ちゃんの飲み物のことだよー。通称、餌ドリンク。野良猫ちゃんは、いつもお腹空かせてるから、ご主人様に餌を貰えないと、他のテーブルに探しにいかなきゃいけないのー」
通常のキャバクラやガールズバーなどでは、「おかわりいいですか?」などと言って男の見栄をくすぐり、ドリンクを奢らせる手法が多いと聞くが、ここでは問答無用でキャストの女性が去ってしまうらしい。実に割り切ったシステムだ。話しを切り出すのも、仲良くなりたて、という一番断りずらいタイミング。
江藤は自分の見る目の甘さを呪った。このリコという女性は、純粋というよりプロなのだと感じた。
先ほどまでの楽しかった気持ちはすっかり吹っ飛び、江藤は仕事を思い出した。
「なるほど。餌ドリンクですか…」
江藤は少し気になって聞いた。
「でも確かこの店は飲み放題だって、外の通りで言ってたような…」
そう言うと、リコは笑みを崩さず即座に答えた。
「飲み放題なのはご主人様だけだよー。餌ドリンクは別料金」
「あ、そういうことですか…」
これでは、飲み放題といううたい文句は釣りに等しい。入店前にこのシステムを説明しない納得しない客もいるだろう。しかし、江藤は陣内に、酒をせがまれたらガンガン奢れ、と言われていたことを思い出す。
「わかりました!じゃあ、たくさん飲んで下さい!もう好きなだけ!」
「ご主人様、太っ腹~。もしかしてお金持ってる人?」
「…まあ、それなりに」
「へ~、すごおい」
リコの表情が屈託のない笑顔から、すこしだけ何かを探るようなものになった。
そこからしばらく、また雑談をつづけた。休みの日に何をしているのか、好きな俳優は誰か、海外ドラマでおすすめの作品は何か、そんな無難な話題で1時間近く経過していた。
仕事は何をしているかを聞かれた時は、学生時代に家電量販店でバイトをしていたため、電機メーカーのサラリーマンの愛媛支社と言っておいた。
彼女の方は、意外にも日中は看護系の専門学校に通う学生との事だった。両親は金銭的に余裕がないため、自らで学費を捻出するためこの店で働いているという。
「けっこう大変だよ~。ほんっと貧乏ってやだー」
ふざけている口調だったが、そう言ったときの彼女の瞳は影がかかった寂しげなものだった。声のトーンも猫ポーズをしているときと違い、どこか素のように江藤には感じられた。
無論、すべて作り話かもしれないが。
しばらく話し込み話題も尽きたころ、リコが座りながら江藤のほうに近寄った。両手を江藤の肩に乗せ、江藤にもたれかかるような態勢をとる。
突然のことで、え?といって体を硬直させた江藤に、彼女は耳元で囁くように言った。
「ねえねえ、明日帰っちゃうんだったらさ、特別に話すけどお、実はこの店、裏オプやっててー、この近くのレンタル個室で、もっといろいろサービスしてるんだー」
頭の中で一瞬陣内の顔が浮かんだ。どうやら陣内の読みが当たってるらしい。江藤は、予想が的中したことの興奮を感じつつ、少しだけ哀しくなっている自分に気づいた。
「え、それって?」
江藤が改めて聞くと、リコはデれるような口調で返す。
「まあぶっちゃけ、エッチ系のサービス」
「…金額は?」
「本番で3万円」
確定。
そう江藤は思った。
「それって法律的に大丈夫なのかな?」
「うん、その辺は大丈夫だよ。ちゃんと店で許可取ってるから」
陣内の指示では、このまま裏オプを受けるのが正解だ。それでミッションは果たせる。
が、江藤の頭には先ほどの陣内の言葉がよぎった。
―オーナーが脅しをかけ、無理矢理働かされているケースもある―
じとり、と嫌な気持ちが江藤の胸に広がった。江藤は聞かないでいい事だが、聞かずにはいられない事を聞いた。
「…あの、もしもなんだけど…」
彼女は相変わらずいたずらっぽく答える。
「うん?どしたあ?」
「リコさんが、本当はそういう行為をするのが嫌なのに、無理に働かされるてるんだったら、警察とかにちゃんと相談した方が」
「…え?なになに?」
「あ、いやだから」
江藤は、姿勢を正して、リコと向き合った。先ほどとは違う真面目なトーンで言った。
「もし、あなたが店の人に脅されて、裏オプみたいのしてるなら、ちゃんと相談した方がいいと思います」
リコはキョトンとした顔をし、少し戸惑ったように言う。
「いや、別にそういうんじゃ…え、なに?説教おじさん?」
先ほどまでの完璧に作られた笑顔から一変、リコはいかにも面倒くさそうな顔になる。
「あ、いや、そうじゃなくて」
江藤は慌てて、つい大きな声になった。 すると、座っているソファの背後にふと気配を感じた。
「お客さん、どうしました?」
江藤が振り返ると、ガタイのいい男が二人立っていた。銀色の短髪の男と、黒髪の坊主男。
銀髪はタイトな黒いTシャツに、同じく黒のタイトパンツを合わせ、足元はスタンスミスの真っ白なスニーカーで、手元にはクロコダイル革の白いセカンドバックを持っている。
坊主男は小太りでメタルフレームの眼鏡をかけ、デニムパンツに和柄のTシャツだ。
どう見ても堅気には見えない。
リコがポロリと言った。
「あれ、オーナー…。店長も…」
「おう」と銀髪が言った。
「オーナー、今日ってお店いないんじゃなかったんですか?」
「売上だけ取りに来た」
リコの問いに銀髪が憮然とした口調で答えた。どうやらこの銀髪がオーナーのようだ。
「で何?警察とかって聞こえたけど」
銀髪が高圧的な口調でそう問うと、リコは焦りながら答える。
「いや、あの、ちょっとお客さんとオプションの事で話してて」
「うん、で?」
「あ、いや…その」
「リコ、ちょっとこっち来い。状況聞かせろ」
「はい」
そう言うと、諦めたようにリコは席から立ち上がる。江藤は慌てて言った。
「あ、いや、僕がちょっとサービス内容を詳しく聞いてただけで」
「お客さんは黙ってていいんで」
銀髪はそう言うと、リコと店長と3人で席から数メートル離れた場所で立ち話をはじめた。
3人の会話が江藤の耳にかすかに入ってくる。
「警察に相談した方が…とかって」とエミが言うと、「あ、そー。で?」と一本調子のトーンで相槌を打ちながらオーナーが話を聞いている。
江藤は冷や汗が止まらない。
完全に余計な事を言った、と思った。揉めるようなことをしたら警戒されて捜査がしづらくなる。それに加えて、あの半グレオーナーと店長に何をされるか、ビビっている部分もあった。
「わかった。エミもういいや、あっちで別の客、接客して」
どうやら話が終わったようだ。オーナーの声は少しイラついているようだった。
「はい、失礼します。店長もまたね」
「おう」
エミは小太りの和柄Tの店長にそう言うと、江藤の方をチラリと見て、別の席に移動していった。
江藤はつい、オーナーの顔を見た。しっかり目が合ってしまったためすぐに目を逸らしたが、それが合図かのように、オーナーと店長が肩幅をいからせながらこちらに歩いてくる。
二人は勢いよく江藤のいるソファー席に座った。オーナーが江藤の真横、店長が正面だ。
オーナーは江藤の首に腕を絡ませると、強引に引き寄せた。黒く筋肉質な腕。おそらく日サロ付きのジムに行っている。
「あのさ、お客さん、ダメじゃん。キャストの子に絡んじゃ」
オーナーは江藤の耳元で呟くように言った。色黒の硬い腕が江藤の首に食い込む。
「す、すみませんでした」
「ちょっとここじゃほかのお客さんの迷惑になるからさ。外で話そうか」
そう言うとオーナーは、「おい、車下に回しとけ」と言って店長にキーを投げた。
店長は大きな体を揺らして小走りで店を出ていった。
オーナーは江藤の首に回していた腕をほどくと、今度はスーツの下のYシャツの襟を持って、強引に引っ張った。ものすごい力で、シャツの襟元からブツッと糸が切れる音がする。
「ちょ、ちょっと何するんですか」
突然のことで江藤は驚き、大きな声を出した。
「いいから、ちょっと下まで降りろよ」
オーナーは威圧的に返した。ほかの客も騒ぎに気づき、服を引っ張られながら店を出ていく江藤をじろじろと見ていた。
そのままオーナーに、力づくで雑居ビルの階段を降ろされた。
「ちょ、ちょっと引っ張らないでくださいって」
襟を思い切り掴まれているので、オーナーがしているでかい指輪が江藤の首にゴツゴツと当たる。
「いたっ。ちょっと手離してくださいよ」
江藤が改めてそう言うと、すでに店の外という事もあり、オーナーの声は先ほどとは比べ物にならない程の大声で言った。
「うるせえ!黙れ」
耳元で怒鳴られ江藤はビクッと体を縮ませた。江藤をさらに焦らせたのは、オーナーの目つきだ。先ほどとは違い完全に据わっている。どこにピントを合わせいるかわからない目だった。
オーナーと江藤が雑居ビルの下まで降りると、ちょうど目の前にアルファードが滑り込んできた。改造されていて、排気音がうるさく、ヘッドライトもやたらと明るかった。
江藤は背筋が凍るのがわかった。
ここで車に乗ったら本格的にヤバい気がする。今、警察だと言えば、さすがに車に乗らされることはないだろう。とはいえ、まだ売春の現場を押さえたわけではないから、今ここで警察だと言えばこいつらはシラを切って、また店ごとどこかに移動するだろう。
おそらく隙を見て逃げるのがベストだと思ったが、Yシャツの襟とズボンのベルトを丸太の様な腕をしたオーナーにガッチリと掴まれており、逃げられそうにない。
江藤はどうすればいいかわらかなかった。
アルファードの運転席が開くと、小太りの店長が出てきた。
「オーナー、お待たせしました」
「おい、後ろのドア開けろ」
オーナーがそう言った瞬間、江藤は決心し、オーナーの顔面めがけて思い切り拳を振るった。
が、オーナーはひょいと首を傾け江藤の拳を交わし、江藤がパンチを繰り出した方の腕の手首を掴まれた。
「いたたた」
江藤は、まるで刑事が犯人にするように手首を捻り上げられ、すっかり動けなくなってしまった。
店長がアルファードの後部座席のスライドドアを開けると、江藤は車の中に投げ込まれた。
「ちょ、ちょっと…やめてくださいよ、乗りませんよ、おれ」
江藤は懇願するように言った。
「ちょっと話しするだけだよ」
オーナーは吐き捨てるように言い、江藤の横に座ると、スライド式のドアが猛烈な勢いで閉めた。
江藤の冷たい汗は止まらなかった。
アルファードがゆっくりと、秋葉原の街を流し始める。アルファードの後部座席はスモークが張られ、夜の街はさらに暗く見えた。
「おい、たしかアイマスクあったよな」
オーナーが運転中の店長に言った。
「はい」
店長は助手席のダッシュボードを開けると、黒いアイマスクを後部座席のオーナーに渡した。
「これ付けろ」
江藤は拒否しようとしたが、このシチュエーションだと無駄だと思い、黙ってアイマスクをつけた。
視覚が遮断されて初めて、はぁはぁ、と自分の息遣いが激しく荒れていることに気づく。
と、いきなり耳元でオーナーの声が聞こえた。抑揚の少ない一本調子の口調だ。
「あのさー」
江藤は思わず、ビクッと反応してしまった。
「お兄さんさー、リコから聞いたよ?」
しばし間があった。
「愛媛から来てんでしょ?どこのサイト見て知恵つけた知らないけど、ダメじゃん、ごちゃごちゃ言っちゃさあ、ねえ?」
江藤は、はっはっと荒い息遣いを整えながら、この先、どう行動すべきか、必死に考えていた。オーナーはなおも続ける。
「うち店にはうちの店のルールがあんのよー、ねえ?だからさあ、よそ者は黙ってようよ」
オーナーは最後に「ねえ?」と言って強めに江藤の背中を掌で叩いた。バシッと乾いた衝撃音がする。
江藤は目隠しをされていたため、背中への衝撃はまったく予想していなかった。痛くはないが、ビクリと反応してしまう。
オーナーは、さらに威圧的に言った。
「ねえ、聞いてる?」
目隠しで体に衝撃を与えられると、次の一撃はいつ来るんだ?と気が気じゃなくなる。江藤はオーナーの質問に体を硬直させて頷いた。
その後はしばしの間、沈黙が流れた。カチカチというウィンカー音や、車の走行音だけが聞こえてくる。
江藤は迷っていた。この二人に、この後何をされるかわからない。
自分が警察であることを明かせば、これ以上は何もされないだろうし、二人を公務執行妨害や暴行で即座に逮捕できるだろう。が、管理売春まで突き止めて店を摘発できるかは微妙なラインだ。
一方、もし自分がこのまま痛めつけられるだけで終われば、どこかのタイミングでまた潜入すれば、あの店を摘発するチャンスは残る。
江藤は迷っていたが、ひとまずは客の振りを続けることにした。
車内にうっすらと聞こえていたアニソンや家電屋の歌などの喧騒が遠ざかっていく。どおやらこのアルファードは秋葉原から離れていっているようだった。
「…どこに向かってるんですか?」
江藤が聞くと、少し嘲るような口調でオーナーは話し始めた。
「お客さんさ、日本の行方不明者数って知ってる?」
突然の質問に江藤は怪訝な表情をした。
「え?」
「年8万人。ヤバくない?5年で40万人よ?」
オーナーはさらに、自分に酔ったような口調で脅し文句を続ける。
「それに加わりたくないでしょ。一応、免許証か保険証の写真撮らしてもらうけど、基本的におとなしく愛媛帰ってくれれば、別になんもしないからさ。まあ、その後またなんかアクション起こしたら愛媛の家まで追い込みかけに行くけどね」
オーナーのそのセリフに、江藤はピンとくるものがあった。
さすがに半グレといえど、店の営業内容に少しツッコミをいれた程度の自分のような客をいちいち殺すだろうか?
背負うリスクが大きすぎるし、さすがに現実離れしすぎている。
じゃあ、なぜ彼らはこんなことを言うのか。
おそらく、このオーナーは自分のような客を恐れている。
正義感や良心から、店のやってる売春行為を警察に通報しそうな客を見つけたら、心底ビビらせて黙らせる。それが目的なのかもしれない。
実際一般の客がこんな風に車に乗せられたら心底ビビって黙ってしまうだろう。万一、警察に駆け込まれても、下手したら「客を送迎していた」で逃げ切るかもしれない。現にこれまで跡が残るような、明らかな暴力もふるわれていない。
おそらく彼らは、そうした犯罪にならないギリギリの線で動いている。
江藤は、自分の仮説が合っているとしたら「あとしばらく耐えていれば解放されるはず」と考え、気が楽になった。
車は、相変わらず静かな道を流しているようだった。が、少しずつではあるが、またあの秋葉原の喧騒が聞こえてきた。もしかすると、秋葉原の周辺をぐるぐる回っているだけなのかもしれない。
ガリガリガリ
江藤が目隠しされた状態でそんなことを考えていると、ガリガリと金属のスクラッチ音が聞こえてきた。
音の発信源はアルファードを1周するように移動している。
オーナーも音に気づいたようだった。
「なんだこれ」
「え?なんの事すか?」
「この音だよ。ガリガリいってんだろ」
察しの悪い店長にオーナーがキレ気味に答えた。
店長は慌てて運転席のウィンドウを開け、顔を出して辺りを確認した。
「あ!こいつじゃないっすか?車のまわりうろうろしてる…。オーナー、なんか棒みたいので、車、傷つけてますよこいつ!」
「あ?なんだって?」
そう言って、オーナーも後部座席のウィンドウを開け体を乗り出した。さすがに、強面のオーナーもやや動揺しているようだった。
江藤は、なんの音かはわからなかったが、なんとなく発生させている人間の方は予想がついた。
アイマスクを外し、江藤もオーナーの後ろから車の外を覗き込む。
「おい、なに勝手にアイマスクはずしてやがる」
オーナーはがなりたてが、江藤の意識は車外にいっていた。
「…やっぱり」
ガリガリといったスクラッチ音が止まり、次は、ガンッ、ガンッ、と車のボディを叩く打撃音が車内に響いた。どうやら今度はアルファードの後部ドアを何かで叩いているようだ。
「ちっ!次はなんだ、おい!この外のイカレ野郎、殺してこい」
「はい!」
指示を受けた店長は運転席のドアを開け、車の外に勢いよくでた。肩をいからせ、後部ドアを叩いている男に言った。
「オイコラァ!てめえ!なにやってくれて…」
店長がまだ言葉を発している途中に、男は手帳を突き出した。
「はい、この手帳みて」
「…あ?」
店長は一瞬すごんだが、すぐに顔を歪め、車のスモーク越しにオーナーを見た。男はお構いなしに続けた。
「あ、じゃないよ。警察警察」
そう言うと、店長はくるりと向きを変え走り出そうとした。男は店長の太い手首を掴み、捻り上げた。イタタタ、と言ってよろけた店長をそのまま車に押し付ける。車の後部のスモークガラスに店長の顔面が吸い付き、その小太りの体が車にぶつかった衝撃で車内が揺れた。
「くそっ、いてえ」
男は店長の左手首に手錠をかけ、手錠のもう片方をハンドルにつけた。
「はい、逮捕と。後ろのドアもあけるよー」
男は運転席のドアについている、ドアロックの解錠ボタンを押した。
ガチャンという音とともにすべてのドアの鍵が開く。
男は勢いよく、スライド式の後部座席のドアを開けた。
「大丈夫、江藤くん?」
相変わらずの柔らかい口調で陣内は言った。
「陣内さん!」
江藤は泣きつくように言った。が、陣内はいたってフラットなテンションだ。
「大丈夫?」
「あ、はい、なんとか」
「ごめんね遅くなって。まさか拉致られるとは思ってなかったから」
江藤の横に座るオーナーが、ようやく口を開いた。
「おめらなんだ?警察か?」
陣内の目つきが少しだけ鋭くなった。
「ああ。動くなよ」
車内に緊張感が走った。江藤はふと陣内が手元に目がいった。
「あの、その手に持ってる棒、なんすか?」
「ああ、これ。十手。警棒忘れたから、電気街のガジェット屋で買ってきた」
そう言って陣内の目線が十手にいった瞬間、ガァァァ、と反対側の後部座席のドアが開いた。
「あ、待て!」
オーナーは勢いよく車の外にでた。焦りすぎて、途中転びながらも走りだしている。
「くっそ、あいつ、逃げやがった」
陣内がそう言うと、ハンドルに手錠で繋がれている店長が叫ぶように言った。
「オーナー、1人だけ逃げるとかないっすよぉぉ!」
江藤が後部座席から立ち上がり言った。
「陣内さん、おれが追います」
「だめだめ、1人じゃ」
陣内は江藤を止めたが、江藤はお構いなしだった。
「陣内さんは、その手下のほうを見ててください。そいつは店長です」
そう言って、先ほどオーナーが逃げていった方向に江藤が走りだそうとした。
「お、おい!わかった、じゃ、これ持ってきな」
陣内はブルゾンのポケットから、黒い筒状のモノを取り出して投げた。江藤はキャッチすると、まじまじとみた。
「なんすかこれ?スプレー?…あ、こんなんまで買ったんすか…」
江藤は呆れたように言った。
「うん、十手と一緒に買ってみた。相手に殺されそうになったら使いな」
「殺されそうにって…。あ、はやく行かなきゃ」
江藤は全力で走り出した。遠くから陣内の声が聞こえた。
「こいつ引き渡したら、GPS辿って追いかけるから!」
勢いよく風をうけ、街の喧騒が一瞬で通り過ぎていく。はぁはぁ、と息遣いがやけに近くに聞こえた。どうやら、追いかけてはきていない。うまく逃げ切れた。
まさか、警察の人間を拉致るとは。我ながら馬鹿なことをした。クソッ。
柴田ユウジは走りながら、そんなことを考えていた。
元々、新宿方面で半グレをしていたが、覇権争いの激しい新宿では頭角をあらわせず、ヤクザの小間づかいばかりする日々だった。
そんなある日、秋葉原の噂が入ってきた。
― 今、コンカフェが流行りだし、違法店も増えているという。その割には土地柄、ヤクザや半グレといった反社の人間の手も及びきっていない。つまりはブルーオーシャンであるらしい ―
柴田はすぐに秋葉原進出を決めた。潰れたコンカフェの居抜き物件を借り、はじめのうちは新宿時代の顔見知りの稼げていない風俗嬢たちをキャストとして雇い入れ、営業をはじめた。もちろん、裏オプ営業だ。
その後、徐々に、秋葉原でもスカウト活動をはじめ、奨学金の返済に困窮している学生や、会社員の女などを雇いはじめた。辞めたいといってきた女たちには、売春行為をした証拠を家族や職場にばらまくと脅して、続けさせた。
一度、摘発を受けそうになったが、警察の動きに詳しい知り合いのキャバクラオーナーからのタレコミを受け、すぐに店を閉めた。
数日後、同じ電気街の別のビルに移転した。もちろん、店名は変えて。それからは、半年に一回は場所を変えて、営業している。それくらい念には念をいれてやってきた。おかげで、新宿時代とは比べ物にならないくらい羽振りがよくなった。
なのに、今日に限ってこんなヘマをやらかすとは。クソッ。大体、あいつは偵察に来たんだろうに、なんでわざわざ裏オプを辞めさせるよう、キャストに説教をかましやがった。潜入捜査でそんなことしねーだろ、普通。
まあいい。今そんなことを考えてもしょうがない。なんにせよ、もう、秋葉原にはいられないだろう。せっかくいい商売を見つけたのに。
柴田はそうやって必至で自分の頭を整理していた。
気づくと走るのをやめて歩いていた。しかも、何を思ったか電気街の方まできており、危うく自分の店の方まで戻ろうとしていた。
危ない。完全に動揺している。
柴田が秋葉原から離れるため、末広町方面に向かおうと、向きを変えた瞬間、目の前に、息をきらし、肩を上下に揺らしている男が立っていた。
江藤はなんとかオーナーを見つけた。
江藤は、途中で完全に姿を見失ったが、闇雲に電気街を走り回っていたら、銀髪の男を見つけた。
一瞬、まるで考え事をしているかのように、ゆっくり歩いていたため別人かと思い、たしかめようと近づいていったら、銀髪の男は急にこちらを振り返った。紛れもなく、銀髪男は色黒筋肉質の半グレオーナーだった。
「見つけたぞ。そこ動くなよ」
そう言って、江藤がゆっくりとオーナーに近づいていくと、オーナーは空を仰いだ。
その姿を見た江藤は、観念したのだなと思った。
が、
オーナーは空に向かって呟いた。
「くそが…」
体を前傾させ筋肉質の腕を後ろに引きながら、オーナー江藤に突っ込んでいった。
オーナーは引いていた腕を思い切り振った。
「おらあ!」
「おわっ」
江藤はとっさに後ずさりして、パンチを避けた。
電気街の路上で突如して始まったファイトに、通行人がどよめく。
近くを歩く者は一様に距離を取り、二人に対してスマホを向けて輪を作るように取り囲んだ。
江藤は、両手を前に出してストップのジェスチャーをした。
「お、おい、殴りかかるな。おとなしくしろ!」
「うるせえよ」
オーナーは、半ばやけになっているようだった。
再び駆け寄って、大ぶりのパンチを何発か繰り出す。そして、その一つが江藤の頬に薄くヒットした。
ゴチン、と鈍い音がすると江藤はよろよろとよろけて、中古DVD店の看板にぶつかった。江藤は思わず打たれた左頬を手で押さえる。
「いてっっ」
オーナーはパンチが当たったことが嬉しかったのか、にやけながら言った。
「はっ。動きみりゃわかる。おまえ弱いな。刑事って柔道とかやってんじゃねえのかよ」
たしかに江藤は運動神経にあまり自信がなかった。現に今も一度も打撃などを繰り出していない。
が、江藤は特に反応はせず、無表情で自分がぶつかった看板をもとの位置に戻し、直後、オーナーに向かって思い切り駆けた。
オーナーはいきなり江藤が駆け込んできたことで一瞬体がフリーズした。江藤はそのままオーナーに肩からぶつかっていった。
が、筋肉質のオーナーにはさほどダメージはなかった。
「なんだ?タックルのつもりかよ。抱き着いただけじゃねーか」
「捕まえたぞ」
「は?」
相撲の取り組みのような態勢から、江藤はスーツの胸ポケットに右手をいれ、黒い筒を取り出すとオーナーの顔面に持っていった。
プシュウーというスプレー音が響き渡る。
「うわああああああ」
オーナーが顔面を抑えながら暴れはじめた。
「げええほ、ごほごほごほ、おえええ。おめえ!なにしやがった…!」
泣き叫ぶオーナーに向かって、江藤はスーツの襟を正しながら答えた。
「催涙スプレーだよ。うちの先輩が、電気街のガジェット屋で買ってきたんだと」
江藤は黒い筒状のスプレーをオーナーに向かって見せてやった。しかし、催涙ガスをたっぷり浴びたオーナーは涙が止まらず、まるで見えていなかった。
「うぅぅ…」とうめき声をあげ、ゴホゴホと咳込み後ずさったオーナーは、ドスンと尻餅をついた。
「め、目がしみて、ひらけねえ」
江藤はブツブツと呟いているオーナーの元に近づいった。
「刑事がみんな格闘が強いと思うなよ」
そう言って、両手で目を抑えているオーナーの手首を引っ張り上げ、スーツの内ポケットから出した手錠を嵌める。
オーナーは両手に手錠が嵌められると、アスファルトに座った態勢で、がっくりと肩を落とした。
江藤がスーツからスマホをだし、陣内に電話をかけようとしたら、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。
サイレンはどんどん近づき、目の前の角から1台のパトカーが現れた。
ドアが開くと、陣内と3人の警官が現れた。
「ああ、江藤くん、いたいた。って、マジ?見つけたんだ」
陣内はすっかり意気消沈したオーナーを見て言った。
「陣内さん、催涙スプレー、役に立ちましたよ」
「マジで使ったんか」
「さっきの店長の方は?」
「あのあと来た応援の奴らに引き渡したよ」
パトカーの登場によって、先ほどの倍以上の人だかりができていた。野次馬たちはみな、スマホを片手に様子を伺っている。下手をしたらTwitterのトレンド入りしているかもしれない。夜のニュースでは、視聴者提供、とルビの振られた動画がたくさん流れるだろう。
陣内と一緒に来た警官たちが、アスファルトに座っているオーナーの両手を掴んで立たせ、パトカーに乗せようとした。
オーナーはパトカーに乗る直前、目の前にいた江藤を催涙スプレーで真っ赤になった眼で睨みつけたが、目からはすぐに力が抜け観念したように言った。
「田舎モンがチクらねえようにちょっとビビらそうとしたら、相手が刑事だったとはな。ついてねえ」
「いいから乗れ」と脇にいた警官が言い、オーナーは車内に消えた。
警官一人が運転席に、後部座席にはオーナと警官二人が乗っていた。
運転席の警官がパワーウィンドウを下げて陣内に言った。
「助手席が空いてますが、乗られますか?」
「いや、大丈夫。現場付近も少し見て帰るし」
陣内がそう答えると、警官は「了解です」と言って、運転席のウィンドウを上げた。
パトカーは野次馬をかき分けながら電気街を抜けて中央通りに入っていく。
万世橋署までは2~3分でつくだろう。江藤は離れていくパトカーを見ながら言った。
「陣内さん、あいつら、裏オプションで違法行為やってるみたいです。働いてる子が言ってました」
「あの様子じゃ、相当ヤバい営業してたのかもね」
いつの間にか、周囲にいた野次馬もほとんどいなくなっていた。パトカーが交差点を折れ、完全に見えなくなると、江藤はガクッ、と肩を落とした。
「ただ、裏オプの現場までは押さえられませんでした。途中で揉めちゃって」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
「え?」
驚く江藤に、陣内はそうサクッと答えた。
「おれ江藤君の戻りが遅かったから、あの店まで行ったんだよね。そしたら、君の担当してたリコって子から、オーナーに無理やり連れてかれる君を見たって聞いて。まあ、だから慌ててGPSで後を追ったんだけど」
「え、それで?」
江藤は食い気味に聞いた。陣内につづきを促す。
「それでリコちゃんに事情を話したら、君が連れ去られた事を心配しはじめて、で、結局裏オプのことも、後で店に呼んだ応援の警官に供述してくれたんだよね。店の中まで案内して証拠品も押さえさせてくれたみたい」
江藤はぽかん、としていた。まさか自分が車の中に閉じ込められている間にそんな展開になっていたとは。しかし、リコにとっては自らの犯罪行為も認めることになる。
「リコさん、よくそんなことしてくれましたね…」
「うん。どうやら彼女はオーナーに脅されてみたい。だから、今がチャンスと思ったのかもね」
「そうだったんですか」
江藤はリコの屈託のない笑顔と、たまに見せる影のかかった寂しげな目を思い出した。
少し複雑な気持ちになっていた江藤に、陣内がいつもの軽いトーンで言った。
「とりあえず、何事もなく終わってよかったね」
江藤は痛む左頬をさすって返した。
「いや、おれ、殴られましたよ」
「ああ、そっか」と言って陣内は笑った。「でもさ」と続ける。
「さっきあいつも言ってたね。”相手が刑事だったとはな”、って」
江藤の頭に先ほどオーナーに言われた言葉がよぎった。
「ああ。たしかに言ってましたね」
「今度こそ実感わいたんじゃない?刑事になったって」
江藤は一瞬ぽかんとしたが、直後に苦笑して言った。
「まあ、少しは」
そう照れた江藤を見て、陣内はニヤリと笑みを浮かべた。
「よーし!じゃあ、逮捕記念でおれの行きつけのコンカフェに今から飲み行こう!奢っちゃう!」
「えっ!コンカフェはまずいでしょ」
「おいおい、大抵のコンカフェは真面目に営業してんだぞ。ああいう違法な店は一部も一部」
「じゃなくて、勤務中に飲みに行くのが、です!」
陣内は「あ、そうか」と言ったが引き下がらなかった。
「じゃあ、ノンアルなら…」
「そもそもサボるのがよくないって事ですよ!」
「駄菓子食い放題のゲーセンあるから、せめてそこで少し」
「いや、サボりたいだけでしょ、あんた」
二人は、アニソンが漏れ聞こえる電気街を、笑いながら歩いて帰った。